ヒモになりたいとは思ってないけど住民票を置かせてくれる女性と出会いたい欲望はあります 日本はマイナンバーなのか住所なのか、何を基準に個人を特定したいのか明確な思想がない つまるところ唯脳論の指摘の通り、脳が管理支配統御を目指すことに対して身体性に対する思想がない
—uoar (@uoar0125)
哲学的ゾンビからクオリア、独我論を経て唯脳論に至る話は元長先生が既に通過済み
—seasidecity_bot (@seasidecity_bot)
期限近くなったので再視聴! 個人的に好きなのは開始5時間後からの質問タイムでの観客との対話 養老孟司×茂木健一郎(+東浩紀)「なぜ脳を語るのかーー唯脳論、脳化社会、クオリア」【モギケンカフェ #4】 @kenichiromogi… https://t.co/0qRwGudj8a
—ノスタルじい (@nostalG1988)
養老孟司『唯脳論』(ちくま学芸文庫) 人工物に囲まれた現代人は脳の中に住む。脳とは檻なのか。情報器官としての脳を解剖し、ヒトとは何かを問う。発表されるや各界に波紋を投げ、一連の脳ブームの端緒を拓いたスリリングな論考。解説:澤口俊之… https://t.co/nxYuHxAinj
—筑摩書房 (@chikumashobo)
それをさらりと指摘しているのが養老孟司さんの唯脳論 世界は脳の産物、脳が全てという趣旨の本と誤解されるタイトルだが、養老孟司さんはそんなこと書いてないから読むべき
—uoar (@uoar0125)
公開終了だけど、後半東さんの弟子育成話に共感。まずはトイレ掃除から。共に働きその姿勢を学ぶ事。/養老孟司×茂木健一郎(+東浩紀)「なぜ脳を語るのかーー唯脳論、脳化社会、クオリア」【モギケンカフェ #4】… https://t.co/pF3PP0ffJp
—Genjiro (@Genjiro85185983)
「脳死は人間の死である」と考えることは、結局、「人間は機械である」と認定しているのと同じことなのです。 唯脳論は姿を変えた唯物論にほかならず、21世紀まで生き延びようとするマルクス主義の流れであることを見抜かねばなりません。… https://t.co/4KTVaiVzAa
—武蔵 / Musashi🇯🇵 (@musasiyamatoda)
#最近の若者が知らなさそうな事を言ってみる 水中クンバカ 『この素晴らしい実験にぜひ立ち会って頂きたい』と当時は『唯脳論』の著書として知られていた東大医学部長・養老孟司さんへの申し出をしていたのが、後の『滝本太郎弁護士サリン襲撃事件』実行犯だった人物。
—MILOS (@MILOSCOSMOS)
元来形に証明はない。自明があるだけである。それはユークリッド幾何学の公理のところでも述べた。ヒトはその視覚の結論を、苦労して聴覚ー運動系に翻訳する。おそらくそこに、時間の問題が発生する。視覚が関与しさえしなければ、時間は「自然に」流れたであろう。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
解剖学を二十五年やっていて、感じることがある。身体性はいまだに禁忌だということである。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
「盲目的な生きんがための意志」が「世界に」前提されているのか、かれ(※ショーペンハウエル)の「脳の中に」前提されているのか。脳は世界像を創る臓器であることを忘れるべきではない。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
浪漫的な解釈を許していただけるならば、文字のない時代の一部の人々は、ひょっとして星を「読んだ」のではなかろうか。星というのは、はなはだ抽象的な図形であって、それだけではかなり単調だとはいうものの、星座のようにたがいに結合して見れば、「読む」にはもってこいである。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
トガリネズミはむやみに細かくよく動く動物だが、時々はたと立ち止まって考えている。これを見ていると、どうもその瞬間だけ寝ているのではないか、という気がすることがある。頭がガクンと垂れたりするからである。もっとも、一瞬後にはサッサと動き出してまた忙しげに働き始める。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
計算機とは、明らかに私たちの脳の延長以外の何ものでもない。それは、ヒトの脳でもっとも最近になって出現した性質を、とくに強く延長したものである。小さな計算機にさしたる能力がないからといって、これを原始的な脳だと考えるのは、その意味からすれば徹底的な誤解である。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
量子力学まで来れば、その「客観的真理」が成立しないことはもうわかっている。そこでは、ものごとは「量子的」つまり微分不能になり、最後には、不確定性原理として観測者が顔を出す。観測者とは何者か。それは脳である。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
@kissaka 唯脳論でしたか、私は浅学にしてきちんと読んでないのですが、脳化の危ない側面を指摘されていたように(うろ)覚えています。
—FD5+ (@trovatore159)
下等生物の脳なら、意識はなくてもいい。脳には剰余がなく、自分の中で何が起こっているか、「知る」だけの容量がない。しかし、ヒトの脳ほど大きくなれば、中味のことがある程度わかって不思議ではない。つまり、ヒトの脳は、外界だけではなく、自分の脳に気がついてしまった。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
MATRIXはコンピュータの中の仮想現実という設定の映画だけど、一般的に思われてるコンピュータとは少し違うが人間社会は実質コンピュータと同一と言える。理由の答えは養老孟司先生の唯脳論。https://t.co/oCIkFsYTul
—チャーリーZ (@secretstar)
そこまで上手く説明できないけど、唯脳論の説明では人間社会は人間の脳の構造がそのまま具現化された構造になっていて、人間社会は脳の成長の延長にある。人間は巨大な脳の中の住人であって、コンピュータは人工的に作られた機械の脳だからコンピュ… https://t.co/jfKIOz9UOp
—チャーリーZ (@secretstar)
計算機を使って脳を作ろうというのは、実際の脳の進化からすれば、話の向きが逆方向だと私は考えている。逆方向だからそれはできない、と言うのではない。計算機という脳の進化は、われわれの脳の一部の、これからの進化なのであって、原理的に脳を代替するものではない。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
こうした(※聴覚におけるリズムとしての)「単位性」が、すでに述べたような、視覚との連合を基本的に可能とするのであろう。すなわち、こうした「単位的な時間」を媒介として、視覚と聴覚ー運動系との「共通感覚」が生じる。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
物理学に唯脳論を持ち込んだのは私ではない。アインシュタインであり、ハイゼンベルクである。脳は物理学に「出るべくして出た」のである。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)
生物学的な時間が、物理的な時間と違って、きわめて多様であることは、誰でも知っている。夢中になっている時間は短く、「主観的」にはほとんどないと言ってもいい。「夢中」とはうまい表現であり、夢の中での時間は、前後関係すらよくわからない。『唯脳論』
—養老孟司bot (@Yoro_bot)